
記事カテゴリ【原稿】「楽して売れよ!」は、私の……おそらく13冊目の著書となる保険営業向けのエッセイ「楽して売れよ!」の原稿制作過程での発信です。そもそも保険営業向けのエッセイなんて私しか書けないし、空前絶後だと思います。また、本になる原稿の制作進行の過程を見ることができるのもここだけだと思います。記事数が100になったら出版します。
【第1章】なぜ、楽して売らなかったら売れないの?
<001>こうして私は保険屋さんになった
最初だけ、自己紹介を兼ねて少々長く書きます。
お付き合いください。
私の家は寿司屋でした。長男だったので、小さい頃から寿司屋になるものと思っていました。大学4年の夏まで、それを疑わずにいました。
ところが!
お盆で店が休みだったのでしょう。父と2人で夕飯を食べていたら、父が突然、「お前、そろそろ就職活動ってやつ、しなくていいのか」と言うのです。
まさに驚天動地。「目が点」「口あんぐり」「ボ〜ゼン」ですよ。子どもの頃から、寿司屋になるものと信じていたし、なりたかったしね。だから、似合わぬリクルートスーツ姿で炎天下を歩き回る友人たちを見て、「かわいそうに。オレはあんなことしなくて済むんだもんね〜」と思っていたのです。
それなのに、このオレが今から就職活動?
冗談じゃないですよ、そもそも就職なんてしたくないのですから。
しかも、極めて世間知らずの父は、お盆の時期になってそれを言うのです。すでに就活の時期は終わり、友人たちは残された大学生活を謳歌しているのです。
そんな地獄に突き落とされちゃかなわないから、「え? オレ、寿司屋になるんだろ?」と言った私に、父は「寿司屋にするために大学まで行かせたわけじゃない」と言います。
でも、そこで諦めるわけには行きません。「そんなこと言わないで、一緒に店、やろうよ」……長男がそこまで言ったら、涙して喜んでもおかしくないと思うのに、父はこう言ったのです。
「いや、あれはお父さんの店であってお前の店じゃない。お前は店には入れないよ」。
その瞬間、私は、唯一にして無二の就職希望先から、履歴書すら出すことなく不採用を通告されたのです。
そこから泣く泣く就職活動を始めたわけですが……思い出したくもありません。常に穏やかに幸せな私ですが、就活の期間は唯一の暗い日々でした。そりゃそうですよ、なりたくなかったサラリーマンになるために、サラリーマンに頭を下げに行くのですから。あわててリクルートスーツを買いに行き、鏡に映ったリクルート姿を見た時は、本当に涙がこぼれそうになりました。
ただし、幸いなことに世は売り手市場でした。バブルが崩壊する前で、企業が人を増やしたくて仕方がない頃だったのです。だから、遅いスタートであってもいくつかの会社から内定をもらうことができました。しかも慶應ですからね。学校名を見ただけで「来てください。ご希望の職種に配属しますから」と言ってきた会社もありました。
でも、内定をもらってもどの会社に行ったら良いのかがわかりません。そもそも会社員にならないことが希望なのですから。そこで友人に聞いてみると、「この辺でイイんじゃないの」言われ、広告代理店なるところに就職を決めました。
研修を終えて与えられた職種は「マーケティングプランナー」。広告代理店もわからないけれども、マーケティングプランナーはもっとわからない。そんな私でしたが、10年間サラリーマン生活を続けました。
でも、今だったら2〜3年で辞めていたと思います。まだまだ終身雇用が当然の時代であり、転職ビジネスなどというものは世に存在しない時代だったから、私のような宮仕えに不向きな人間でも10年続けることができたのでしょう。
そうこうする内に30歳を迎えました。
男でも女でも、30歳を迎えることには、ある種の感慨があると思います。「このオレが、もう30か〜」という感慨です。
そこで、ふと思いました。
「オレはこのまま会社員で終わってしまうのかな〜」
対する心の答えは「それはイヤだな〜」でした。
では、マーケティングプランナーとして独立する?……それは無理だな〜。仕事、取ってこれないもんな〜。
じゃ、やりたかった飲食店をやる?……それも無理だな〜。金、ないもんな〜。
でも……そこで考えを止めなかったのが、後になれば人生を変えるきっかけになったのです。
「じゃあ、オレ、何ならできる?」
その答えは一瞬で出ました。「筆で食えるようになろう!」。
筆で食う……筆に墨をつけて、和紙に字を書く、世間的には「書道」というものです
(私は「書道」ではなく「書」と認識していますが)。
高校3年の時まで、いわゆる書道教室に行き、書道会に入っていましたが、私は「ちょっと上手い」のレベルではなく、ダントツに上手かったのです。「同年代でオレと同じくらい書けるやつは、大宮には2人しかいないな」と認識していました。
だから「筆で食えるようになろう。他のことをやるよりも、それが一番可能性が高い。筆で食えるようになれないのなら、他のことをやったって到底無理だろうからな〜」と思いました。
そして、10年ぶりに独学で書を再開しました。遊びの時間を減らし、空いた時間には筆を持つようになりました。その前までは、土日祝日に大宮競輪が開催されていると必ず行っていましたが、「筆で食えるようになろう」と思った時からは一度も行っていません。自分を律することが何より苦手な私が、唯一、自然に自分を律することができたということは……「筆で食えるようになる!」と思ったことは、私の運命なのでしょう。
その2〜3年後、時折「転職しませんか?」という電話がかかってくるようになりました。転職ビジネスというものが世に出始めた頃なのでしょう。
外資系の会社からも電話が掛かって来ました。当時は今と違って外資系の会社はごくわずかしかありませんでしたが、それゆえに「外資系の会社に行くと、年収が3倍以上になるらしい」という噂が流れていました。
年収が3倍になったら……そりゃ嬉しいですよ。そこで話を聞きに行くと、年収は2倍弱を提示されましたが、仕事量は今の3倍くらいになるのです。
仕事量が3倍になったら、帰宅時間は遅くなり、筆を持つ時間が減ってしまいます。だからその話はお断りしました。
「まあ、しばらくはこの会社にいよう」と思って帰途に着きましたが、その3日後、また「転職しませんか?」という電話が掛かって来ました。
ソニー生命保険株式会社という会社からです。
「五十田さんの会社の地下に、大きな喫茶店があるでしょ。あそこでコーヒーでも飲みながら、話を聞いていただけませんか?」と言うので「構いませんよ」と言いました。どうせ1日に1回は降りて行く喫茶店です。コーヒー代がタダになるのなら文句はありません。
それに、私には自信があったのです。それは「生命保険? 行くワケね〜じゃん」という自信。広告屋にとっては、金融系……特に不動産屋と保険屋は、転職先としては「地球の裏側」のような、最も遠い存在なのです。
その時の会話は……今となればほとんど覚えていません。ただし、相手の人(所長さん)は、思ったよりもはるかに堅苦しくなく、話しやすかったのは意外でした。それもそのはず。その人も広告代理店出身なので、私に電話をして来たのです。ノリが広告屋なので、会話に違和感はありませんでした。
ただし、詳しい仕事内容や報酬体系などの話は何もなく、「やったらやっただけもらえる」程度の説明だったと思います。
初回の面談で覚えている話は2つだけ。
1つは「ヒゲもメッシュもそのままで結構です」という言葉。
マーケティングプランナーという仕事は、パーテーションで囲まれた席で、資料を見たりプランを書いたり……といった「引きこもり仕事」なので(今のオレと同じだ。だから10年続いたんだな〜)、スポンサーと会う事は滅多にありません。
だから普段はノーネクタイだし、当時は鼻の下と顎にヒゲを蓄えていました。しかも右側頭部には真っ赤なメッシュ(当時は今よりも髪があった)まで入れていました。
それをそのままでイイ? 保険会社なのに?
「やっぱ、保険会社でも、世界のソニーはちょっと違うんだな〜」と思ったことは覚えています。
それに感激した私は、ソニー生命に興味を持ち……なんてことになるはずがありません。そもそも生命保険を売るなんて少しもやりたくはないし、私にできるはずがないのです。
もう1つは、反応がない私に対して所長さんが唐突に言ったこの言葉。
「五十田さん、お酒、好きですか?」
「お酒? 大好きですよ」
「だったら、お酒飲みながら話をしません? ご馳走しますから」
お酒は好きだし、ご馳走はもっと大好きです。
「イイんですか?」
「ご遠慮なく。ぜひ行きましょうよ!」
そう言われて3回、本当に遠慮なく飲み食いさせていただきました。
その間も、保険やセールスに関する話はあまり出なかったと思います。
とにかく、私の記憶にないのだから、ないも同然なのです。
そして4回目のお誘い。
「五十田さん、支社長がご挨拶したいと言うので、飲みに行く前に支社に寄っていただけませんか?」
もちろん何の問題もありません。支社長室に連れて行かれると、白髪のおじさんが出て来て「いや〜、どうもどうもどうも」と握手されました。
ただそれだけ。名刺交換すらしなかったんじゃないかな〜。
とにかく、広告屋さんにはかしこまって名刺交換などという風習がないので、私も名刺を出さず、先方も出さず……で終わったような気がします。社長室には1分もいなかったのかもしれません。会話も何もなかったと思います。
その後、飲み屋に行って……所長さん、こう言いました。
「五十田さん、これで3回の面接と、最後の支社長面接が終了しました」
面接って……面接なんか何もしてネ〜じゃん。
そしていよいよクロージングです。
「五十田さんさえよろしければ、来月からでもウチに来て働いていただけます。ウチには、年収4000万、5000万稼いでいるヤツがゴロゴロいます(ゴロゴロはいない。たまにいる)。五十田さんもウチに来て、ガンガンやって、ガンガン稼ぎませんか?」
そう言われて、潔い私は、即座にお断りしました。
何しろ私は、ガンガンやりたくなんかないのです。
保険の仕事をガンガンやって、筆が持てなくなるワケにはいかないのです。
もちろんその後、遠慮なくお酒は飲みましたよ。
ちなみに……言っておきますよ。
潔い(いさぎよい)私は即座に断ったけど……こういう時に「ちょっと考えさせてください」なんて言っちゃう人は、お客さんからも同じように言われるからね。
あなたの行動がそのまま自分に返って来るという、キリストさんもお釈迦様も2000年以上前におっしゃっていた教えは正しいのだからね。
こうしてソニー生命からの誘いを潔く断った私ですが、その1ヶ月後に所長さんからまた電話が掛かって来ました。「もう一度、最初に会った喫茶店でお会いできませんか?」という電話です。
潔い私は、すぐにOKしましたよ。
だって、4回も遠慮なく飲み食いしておいて、「え〜っ……転職の話はお断りしたでしょ?」と言うほど冷たい人間ではないですから。
ちなみに……もう一度言っておきますよ。
義理人情に義理人情で応えられないような人間は、お客さんからも同じように対応されるからね。
あなたの行動がそのまま自分に返って来るという、キリストさんもお釈迦様も2000年以上前におっしゃっていた教えは正しいのです。
話を戻して。
最初にお会いした喫茶店で所長さんとお会いしました。
向こうも仕事ですからね。しかも4回も遠慮なく飲み食いされちゃっている。1回のクロージングで諦めるワケには行きません。
所長さん、真逆の作戦を立てて来ました。
「ガンガンやって、ガンガン稼ぎませんか?」と言ったら、一瞬で断られた。だから真逆の作戦を取ったのです。
「五十田さん、ウチの会社は休み放題ですよ。来ませんか?」
その頃私は、1つの思いがあったのです。
それは、「書の公募展に出品してみたいな」というもの。誰でも出品できる全国規模の展覧会に作品を出品したかったのです。実力の程が知りたいから。
しかしそのためには、2週間くらいは部屋にこもっていたいのですよ。でも、当時は有給休暇なんて有名無実の時代。1日休ませてくれと言っても「ふざけんなよ!」と平気で言われた時代です。30そこそこの小僧が2週間休むなんて、入院でもしなければ到底無理なのです。
そこに「ウチの会社は休み放題ですよ。来ませんか?」……たしかに所長さんは、月曜と木曜の朝、会社に顔を出すだけでいいと言っていました。ということは、それ以外の時間は自分の自由に使えるのです。
それを聞いて思いました。
「天が背中を押してくれている」……。
潔い私は、さして考えることもなくこう言っていました。
「あ、そうか。ですよね。だったらお世話になります」。
こうして1995年の8月、私は保険屋さんになったのです。
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「三洞の面会日」
